2013年2月5日火曜日

『ひょっとこ』

これは何と適確に酔っぱらいの本質を突いた作品だろう。普段は真面目な人間程、酒を飲むとはしゃぐものである。翌日には照れ隠しで「覚えていない」等と言っているが、実はしっかり覚えているのである。なぜこんなことが起こるのか?それはやはり酒というのもが理性を失わせ、その人の内部にある本性をあらわにするからであろう。酒というのは恐ろしいもので、普段心に纏っている理性のベールを剥がしとり、それが分厚い人程、酒によって豹変させられてしまうのである。ただしかし、豹変した彼は果たして本当の彼だろうか?

主人公の平吉は、本心は真面目なのだが知らず知らずのうちに嘘をついてしまう人間だ。本人に嘘をついているという自覚は無く、その場その場が盛り上がるように、適時拵えた作り話を披露しているのである。そしてこの人物の人生からこの嘘を取り去ってしまうと何も無くなると言い切ってしまえるくらい、平吉の印象はこの種の嘘で塗り固められたものだった。

ところが平吉は酒を飲むと、自分でも別人と思うくらいに豹変する。遂には酔った勢いでひょっとこの面を被って船縁で踊っているうちに転倒し、頭を打って死んでしまう。平吉は死ぬ間際に側にいた男に消え入りそうな声でこう言った。

を……面をとってくれ……面を。」

そして言われた通りに面を取ると、そこには蒼白の、彼の知っている平吉ではない人間の死に顔があった。

このひょっとこの面とは、彼が常日頃纏っていた理性の代用品ではなかっただろうか?「道化」という面を被ったまま死んでしまった彼は、結局死ぬまでそれを取り去る事が出来なかった。しらふのときは嘘で塗り固め、それらが酒で取り払われてしまえば今度は面を被ってふざけてみせる。しかし実はそのどちらも彼の本性ではなかった。本性は彼は最期に見せた、蒼白の死に顔の上にだけあったのだ。人間は酒を飲んでも飲まなくても、「本性」などというものを現す事は出来ず、本性とはその死に至って初めて現れるものだということである。つまり人間には本来、何もないのである。本性などというものは存在しないのである。生きている間に言う事なす事、全て嘘なのだ。

『ひょっとこ』は一見剽軽な作品だが、実は芥川龍之介の虚無感がよく表れている作品なのである。


2013年1月25日金曜日

『青年と死』(大正三年八月十四日)

芥川龍之介というのは、誠に早熟の作家である。幼少の頃から勉学において優秀だったらしいし、一高、東大と正に当時のエリートコースを歩んできている。しかも芥川の入学した文科大学英文学科は難関で、数名の合格者しか出さなかったと言うから、その秀才ぶりは推して知るべしである。ほぼ定員割れしていた仏文科に入った太宰や、高校での成績が良かったため無試験で法学部に入った三島とは、同じ東大でもえらい違いである。

いや、私は本来文学には学歴など不要と思っている。私はただ芥川が早熟だと言いたかっただけだ。それは例えば全集を買って本棚に並べてみた時に分かる。有名作品の殆どが初期に位置し、中期になるとまあちらほらある程度で、後期に至るともうアフォリズム集とか『河童』や『歯車』など、余程のマニアじゃないと読まないであろう作品ばかりである。早熟で、最初はいい。だが後年になってくると何か文学上の迷いのようなものが垣間見えてくる。そしてご存知の通り自殺してしまう。

この早熟さは、作品にも影響していると思う。彼の作品の殆どが短編である。長編にも挑戦はしているものの、成功していない。つまり、この作家のスゴさというのは、偏に瞬発力にあったのではないかと思う。短編なら、一気に書けば一日で書いてしまえる。短期間で集中して成果を出すというのが芥川の最大の才能だったと思う。それを思えば学業試験や入試などのペーパーテストが得意だったというのも辻褄が合う。

この早熟の作家は、早くも本作『青年と死』で頭角を現し始めている。これは戯曲形式で綴られた物語であるが、「死」というものが一人の男の姿を借りて登場する所が面白い。そして結末では、死を忘れていた男は殺され、死を忘れなかった男は生き延びた。死を忘れ、快楽を追い求めた前者の男は、その快楽さえ死の化身であることを見抜けなかった、故に却って近づいていたのである。死を忘れなかった後者の男は、ずっと死を意識し続けて、死を願いさえしていたのだ。だが死を忘れなかったが故に死は彼を生かした。死にたいと思っている人に限って生き残る。それは死を忘れないからである。そういう逆説が何か教訓的に描かれている。

芥川はこのときから既に「死にたい」と思っていたのかも知れない。彼の虚無的な価値観を以てすればあり得る事だ。そして「死にたい」と思っている自分がのうのうと生き残っている事に不条理を感じていたのだとすれば、この死を忘れなかった男とは正に芥川本人に他ならない。


2013年1月21日月曜日

『老年』(大正三年四月十四日)

老年

芥川の処女作、『老年』である。これがあのカリスマ芥川龍之介の処女作というのはいささか驚きである。該博さと虚無的な雰囲気はまあ彼らしいというのはあるかも知れないし、情景の美しい描写も細緻で、「流石!」といいたくなることはあるかもしれないが、それにしてもやはり処女作としては地味過ぎる。というか処女作で『老年』というともう始まりながら終わっているような、そんな虚無感に教われる(太宰治の『晩年』もそうである)。多分今では一部の文学ファンにしか読まれてはいないのではないだろうか。

話のあらすじはこうである。

若い頃遊蕩に明け暮れて、一時は三度の飯にも困る程の廃れた生活ぶりだった爺さん(房さん)が、運良く縁者に引き取られて隠居していた。ある日二人の男が屋敷の中を歩いていると、障子からわずかに声が漏れてくる。それがその房さんの声らしく、しかも何やら艶かしい内容である。きっと昔の女と話しているのだろう、やれやれじじいも隅に置けんな、と二人がそっと戸の隙間から覗いてみると、中にいたのは房さんと丸くなっている猫だけで、女の姿はなかった。

要するに房さんは、昔の情事を懐かしがって、一人呟いていたのである。若かりし頃の思い出に浸って一人猫を撫でている老人の淋しさがよく伝わってくる。しかし話としてはそれだけで、芥川の代表作にあるような目の覚めるような筆遣いや、教訓めいたものはまだない。

なお、この作品だけに限らないが、芥川の場合、語彙が豊富すぎて言葉が難しいので、青空文庫でも読めるが、出来れば注が付いているちくま文庫の全集で読まれる事をお勧めしたい。


はじめに

私は『芸術的生活を目指すブログ』というブログを書かせてもらっている。
そこでは文学に比重を置いた芸術一般のブログとして、私が出会った文学の中で印象深いと感じた作品について、作品毎の批評を書かせてもらっている。
これは私の趣味で始めたブログであるので、私の気の向くままその日書きたい作品について書きたい事を書いている。
これはこれで楽しく執筆させてもらってはいるのだが、しかしどうもそこから分けて論じた方が良い話題というのがどうしても存在する事に気が付いた。
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫である。
この四人については日本文学史において別格であり、私の気の進むままに時系列も作品同士の繋がりも無視して書いていては、その作家の本質を探るにはいささか無理があると気が付いたのである。
そこで先の『芸術的生活を目指すブログ』がメインだとすると、そこから派生させた、言わばスピンオフ的な作家別のブログがあった方が良いと思われた。
この『芥川龍之介研究』はその一つで、このブログでは芥川龍之介の作品を発表された順番をきちんと踏みながら批評していこうという、そういうスタンスでできたブログだ。
芥川龍之介の作品を有名作品から全集にしか載っていないような作品まで、より細かく取り扱っていきたいという主旨である。



なお、他の三人についても、同じようなスタンスでブログを開設することにしたので、以下のリンクも参照されたい。